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フラメンコとの運命的・偶然かつ必然的出会い

更新日:2023年8月14日



前回”石川亜哉子”は日本 /スペイン/ フラメンコで構成されているとお話しました。

その”フラメンコ”とは無縁な学生時代の私と"フラメンコ”との運命的且つ衝撃的な出会いについてお話ししたいと思います。


振り返ってみると私の芸には、自分の過去の経験が、知らず知らずのうちに反映され、びっくりする事があるのです… 


描いていただいたお気に入りのポートレート
SARA


大根足と鈍足と逆上がり 


私は、教育熱心な看護婦であった母と、画家や小説家、戯曲家、を夢見ながら、美術学校を出て、教員の道を選んだ父の間に生まれました。(神奈川県・横浜市)

父は、彼の叔父である作家の石川達三にとても憧れていました。

達三大叔父さんは、子供をあまり子供扱いしなかった人で、遊びに行くと「この花はなんて名前だ?」「あの鳥は?」と子供に聞き、私が「わからない」と答えると「なんだ!何にも知らないんだな、よし、教えてやろう」と大きな声で喋る人でした。

ちょっと怒られてるみたいなので、同世代の親戚の子達は積極的には近づきませんでしたが、私は教えてもらえることが楽しくて食らい付いていったので、良く遊んでもらっていました。毎回、オセロを一戦交えるのも習慣でしたが、私は勝つまで帰りたがらなかったそうです。


小さい頃の私は、好奇心旺盛で、やり遂げたいと思ったことには粘り強くしつこくとことんやるそんな性格でした。

そして、大人が経験したことを直に教えてもらうことは、机の上の勉強より大きな意味があると子供ながらに感じていたんだと思います。


両親は運動や自然を愛好していたので、よくスキーや登山に連れていってもらい、行った先々のその土地のものを楽しむ事を学びました。

小学校入学時、習い事を選んで良いと言われ、”白鳥の湖”に憧れていた私は、バレエ教室の見学まで行きますが、直感で「これは、私の場所ではない!?」 と感じたのか、号泣して帰り、ピアノを選択したそうです。その後、ピアノは10年間続けました。

母はスマートだったのですが、父は、ぽっちゃり型で、私も小太りで足は父にそっくりの”大根足”。幼いながら、遺伝を恨みました・・・(笑)。



毎月の給料日に、演劇や舞台が好きだった父は、何かしらのチケットを用意してくれて、それを見て、帰りに外食するのが我が家の決まりごとでした。

12月は決まって第九でした。その他、ロシアバレエ団の白鳥の湖、坂東玉三郎の藤娘の舞、劇団四季のミュージカルなどが楽しかったのを覚えています。

玉三郎に憧れて、お年玉を貯めて写真集を買いました。その当時1万円近くしたので、なかなか買えなかえず、一生懸命色々我慢して貯金したのは今となっては良い思い出です。

テニス部の私はどこだ?
テニス部だった頃

中学で軟式テニス部を始め、ペアを組んだ親友と横浜市内では、負け知らず。

高校で硬式テニスに転向してからも、地区優勝、県大会の2回戦までは行く実力で、テニスクラブでアルバイトもしていましたが、選手になるには足が異常に遅いのが致命傷だったので、高校3年まででかっきり辞めました。(↑写真 さあ「私」を探してみてください!)

小学校の時から、徒競走では、学年でほぼビリだったり、逆上がりができなくて、放課後、居残り練習をしてもできなくて、泣いた記憶があります。

父にそっくりな丸い体型と鈍足と逆上がりは、私のコンプレックスでした。



フラメンコを歌ってみた時ハイジみたいだと言われた所以 


音楽が好きで、合奏部と合唱部に参加していました。

合奏部では、小太鼓やアコーディオンを担当。特に、小太鼓は、リズムの要なのでとても燃えましたし、合唱部も、校内コンクールにて、上級生との決勝に残った時、めちゃくちゃ燃えた!のを覚えています。


そういえば、フラメンコを始めてからどうしても唄がやってみたいと思いThe Flamencoのマヌエルに3ヶ月くらいプライベートレッスンを受けた時期があります。

ある日、マヌエルがしみじみ私に言いました。


「君は、リズム感もあるし、悪くないんだよ。発音に難はあるけどね、でも、それよりもさ、、、

普段の声はフラメンコに向いてる声質なのに、歌うと急にハイジが歌ってるみたいしか聞こえないんだよ

 

私達は、5秒くらい沈黙してから、大笑いしました。

録音を聞いてみたら、それは、もう、良くも悪くもモルダウを歌っていた合唱部の私の声。フラメンコとは真反対な声です。

マヌエルは、私という生徒を失うことになるんですが、正直に言ってくれたことは今では、笑い話とともに、とても感謝しています。

それにしても、過去の合唱部の歌い方がずっと体に染みついているんだとびっくりした事件でした。


それから、アイドルのピンクレディに夢中になり、とにかくずっと踊っていました。体育の授業中に踊っていたので、先生が怒り、「そんなに踊りたいなら、朝礼で皆の前で踊ってみなさい!」と言われたのを、叱られているとは気が付かず、踊ろうとしたそうです。


小学4〜5年生の時、スキー場のロッジで、流れるピンクレディの曲を完コピして、宿泊客から投げ銭を頂いて、2年ほどストリートパフォーマー気取りでした。(笑)

これが、人前で踊りを披露をした最初の記憶です。



初体験フラメンコ


そんな中、とうとうフラメンコとの出会いが到来します。

”アントニオ・ガデス”というスペインの素晴らしい舞踊家、兼振付家の代表作、”カルメン”が、我が家の給料日の決まりごとの観劇チケットとしてやってきたのです!!!


フランスの作曲家ビゼーのオペラに、フラメンコ舞踊を取り入れた作品です。

口承伝承だったフラメンコを舞台芸術として世界に普及することに貢献したきっかけになりました。

両親に連れられていっただけの私には、それを知る由もありません。

しかし、シンプルな舞台構成と照明、アントニオ・ガデスの舞踊の完璧な美しさ。

ただ美しいだけではない、野生味のある美でした。それがフラメンコ特有の美しさだったということはその時は知る由もなかったのです。

素晴らしい芸が、洗練された舞台芸術がプラスされることにより更に素晴らしいエンターテーメントになる事に感動しました。


私とフラメンコの2回目の接近は、この舞台から4年後くらいになります。

その時、初めて、あの時見たのはフラメンコだったんだ!と気がつきます。


                         To be continue


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