フラメンコの正体を見たくて飛び立った亜哉子 無知の勝利で何を目にしたのか?
若気の至り? グラナダ時代の石川亜哉子
スペインに渡ってすぐに向かったのはフラメンコの聖地とも称されるグラナダでした。そこには4年半ほど在住しました。
グラナダでの私個人的な一大ニュースは、『生のジプシーフラメンコを間近でみれたこと!』そして『本場での踊り手としてのデビューを果たせたこと』でした。
ただ、その二つにたどり着くには、当然ながらまっすぐな道のりではなく、さかみち、トンネル、草っぱら、危険な一本橋、でこぼこ砂利道!!! 色々ありました。
そんな、色々な中で私がフラメンコは生活そのもの、生きることそのものだと感じた体験のほんの一部をお話ししたいと思います。
渡西する時、両親には許してもらうために「2年で帰る」と言いました。しかし、自分の中では、「6年ぐらいは滞在する」とひそかに決めていました。だますつもりはなかったのですがどうしても許可してもらいたかった心がつかせた小さな嘘でした(笑)
その頃、偶然、親戚がグラナダにいたこともあり、念願のフラメンコの故郷アンダルシア、グラナダに住むことができました。しばらくは親戚を頼っていたのですが、ある日一人暮らしを決意。
しかしながら、スペイン語力ゼロ。生活に必要な電気や水道の契約さえもおぼつかない…
さらに、踊る気満々で靴を持って勇ましくフラメンコ学校に出かけ
”Quiero aprender flamenco(私はフランメンコを習いたいです)"
と紙に書いたものを手にもって受付に行ったところ…
”¿Cuando quieres empezar? (いつから始めたいのですか)?”
と口頭で返され、聞き取れなくて撃沈。。。
この日は「紙をみせる」→「いつから始めたいの?」と聞き返される を何度繰り返したことでしょう。
結局、その日はあきらめて帰ることになりました。
そんなことを繰り返しているうちに、とうとう国際的にも有名な踊り手マリキージャさんの舞踊学校に入ることができました。最終的に私はここに計15年在籍することになります。
基礎は日本で習ってきたせいか、最初から上級クラスに行くように言われました。
しかし… そのレベルの高さにおののきます。中学、高校生くらいのバリバリに踊れる子供達の後ろの方で必死になってレッスンについていく毎日。
無知の勝利? フラメンコ全盛期のアンダルシア
その頃、カナル・スールというアンダルシアの地方局では、ほぼ毎晩フラメンコが流れていました。残念ながら、今は特別な日にしか流れません…
このチャンネルで私は育ったと言っても過言ではありません。毎日録画して、気に入ったものはVHSテープが擦り切れるまで何回も見ました。
またその当時は、今とは比較にならないくらいとってもたくさんフラメンコフェスティバルがありました。
テレビで見て気に入ったアーティストの名前を覚えておいて、ポスターで見つけると、他県にも足を運びコンサートを見ました。以前のスペインの通貨はペセタといい、日本円が強い時代で、換金するとお金は増えたように感じました。でもそれは、当時のスペインの物価がとても安かったということが大きかったと思います。
ビール一杯がお通し付で100円くらいでした。お通しはタパスと呼び、現在でもグラナダはビールの値段でタパスがついてくることで有名な土地です。アルハンブラ宮殿の入場料が400円くらい(現在1900円くらい)、夜通しのフラメンコフェスティバルの入場料が1200円くらいでしたので、ポケットに3000円くらいあれば朝まで食べてフラメンコ三昧の一晩が過ごせたわけです。
フェスティバルが朝方5時くらいに終わると、スペインの人たちは、揚げたてのチューロス(揚げドーナツ)を食べてから帰るというのが定番でした。チューロスを食べながら興奮冷めやらぬフェスティバルの事を話したり、次のコンサート情報を話したりするので、その話に必死に耳を傾け、朝まで頑張りました。
若さ故の 得られた 忘れられない夜の物語
グラナダの旧市街地、アルバイシン地区には、当時ペーニャと呼ばれるフラメンコ民謡酒場みたいなものが、数か所あり、それに加えて、サクロモンテ地区はロマ族が住みついた洞窟バルが沢山ありました。そこでは、夜中の1時過ぎから地元のアーティスト達が集まって夜な夜な、宴を開いていました。これは、フラメンコを専門で見せるタブラオとは、別のものでフラメンコアーティストやフラメンコを溺愛する人たちが集まるディープなお店です。
この2地区は、歩いて移動できる距離なので、「有名アーティストが〇〇に出没して歌い始めたぞ!」という情報が流れると、急いでそこへ移動して聞きにいったのを覚えています。
この世界では、フラメンコの原点である唄が重要で、良き唄を聴くために夜中じゅう皆が集います。
そこでの『踊り』は、こらえきれない嬉しさを表現するかのように、何の構えもなくちょっと出て行って粋に踊るべし、ということが自然に行われている空間でした。
このペーニャや洞窟バルに通い続けて、気付いたことは、『フラメンコ』と『フラメンコ舞踊』というのは、同じところにあるように見えて、実は原点と、原点から発展したアート(芸)という関係にあるのではないかと思いました。
ハイメ・エル・パロンや、今は亡き国民的フラメンコ歌手、エンリケ・モレンテもふらっとペーニャにやってきて、心のままにサラっと歌って帰る姿を何回と目にしました。
今、フラメンコ界を引っ張っている歌い手、マリナ・エレディアとエストレージャ・モレンテは、お二人の娘さん達です。この頃、15歳くらいで、お父さん達に連れられてペーニャに来て人前で歌い始めた姿も見かけました。
この宴は徹夜なので、週3回行くとくたくたでしたが、まだ私も若かったので(笑)
週3回ほどの”夜のフラメンコパトロール”が楽しくてしかたありませんでした。
友達は最初いませんでしたが、週3で通っていたので、顔見知りは増えて行きました。
ここで学んだことも、私のフラメンコ人生にとても大きな影響を与えたといえます。
気に入った唄があると、誰の曲か聞いて、メモして次の日CD屋さんに行きました。
沢山曲を覚えて、CDの数も増えていきました。
さて次の難関です。聞きているだけの時期が暫く続きましたが、だんだん玄人さん達がする反応がとても気になってきたのです。
ここで言う反応とは、フラメンコで良いパフォーマンスがあったとき、『Ole ! (オレ!いいぞ! )』と、声をかけたりすることです。
明らかにこぶしを回した、とか、明らかに声を張った時の『Ole!』はわかるのですが、そうじゃないときにも『オレ~!』と言っているではありませんか!!!
「何?何で?」
これは、歌舞伎の掛け声にも近いものなのかもしれません。
古い歌舞伎の演目の中には、400年ほどの歴史があり、決め台詞や動きがあり、いかに上手くやるかの中に、いかに気持ちがこもっていて粋なのかが表現できることが重要なのではないかなと思います。フラメ
ンコもそれに似いてる感じです。
日本の演歌もこぶしが上手く回せて歌がうまいだけでは駄目で、いかに、その唄を表現するかで人の心がうごきますよね?
多分、そんな感じなのかな、とは思いながらも、歌っている内容がまだ一割くらいしかわからなかったので、とにかくじっと聞いていているしかないなとその当時は思っていました。
それでも、朝5時くらいに真打ちのアーティストがおもむろに歌い始める唄には、魂がものすごくこもっていて、以前、新宿のタブラオで体感したのと同じものを感じました。
こういう時、私は”黒い音”に包まれる感じがして、とても心地よいのです。
私の言う”黒い音”は、言葉で説明してみるなら、魂、ソウル優先の音の事で、物に例えるなら濃厚な熱々エスプレッソコーヒーとでもいえるでしょうか。
”白い音”は、テクニック優先の音の事で、滑らかなミルククリーム。
この時代、私の好みは、焦げ茶色、エスプレッソ多めの配合だったのは間違いありません。
白黒、どちらも大事なのですが、黒優先の演奏は、まさに生身の人間を感じます。それは言葉で説明できるものではなく、感じるものです。それは今でも、全く変わりなく、その音を求めて生きている自分を感じます。
その音は熱々で、私の体内から全身を熱くします!
しかしそれは、テクニックが足りなくて良いと言っているのではありません。テクニックは永遠に追及していくものです。芸として人に見せるときの絶妙な配合具合がとっても大事だということなのです。
さて、この頃の私は曲種もわかるようになっていましたし、何について歌っているかな?というのが解るときもありました。
叶わない想いだったり、死についてだったりする深い唄です。
忘れらない夜があります。
“ Niño de Las Almendras “ アーモンドの少年という愛称の歌い手さんにお世話になっていました。歌の事、沢山教えてもらいました。(1931年生まれ~2013年)
私が出会った頃、60過ぎだったと思います。
ある夜ふと彼は言いました。
「そう言えば、どうして俺がアーモンドの少年っていう名前になったか話したことあった?」
私が
「聞いたことないです。」
というと、彼の家は裕福でなく、兄弟が7人とかいたので、小さい頃から働いていて、
声が良かったので、収穫したアーモンドを売るのが仕事が彼の仕事だったからその相性がついたと言うのです。
そこまでは、生い立ち話を普通にふむふむと聞いていました。
そして…
「良い声で歌うとね、アーモンドが沢山売れて、早く家に帰れたんだよ。おやつももらえたしね!」
と彼はつづけました。
その言葉を聞いて私は涙が止まりませんでした。フラメンコにもいろいろあるけど、彼のフラメンコの原点はここだったんだと思うと自然に涙が流れていました。
私の幼少期は、食べ物に困ったことなんかない、お菓子もいつもテーブルに置いてあった…
その時流した涙は、彼をかわいそうに思ったからではありません。
私の決心の涙です。この先フラメンコに関わる以上、人の人生や生い立ち、社会的背景など全てを知らなくてはいけないと強く思ったのです。
「それが全て詰まった特別な口承伝承の音楽に私は挑もうとしている。心して付き合わなくてはいけない。」とその夜決意したのでした。
歌いながらシャツを破くって?亜哉子驚き!
そして、更に、衝撃的な出来事がおこります!
唄が最高潮に盛り上がった時、そこにいたロマ族の一人の男性が、シャツのボタンを引き裂き、泣きながら、
「Oleeeeee !」
と言っています。
その場では何が起こったのか聞ける雰囲気ではなかったですし、私は、何日かその件について考えたり、調べたりしました。
それは、ロマ族の習慣で、冠婚葬祭の場などで、最高に嬉しかったり、最高に悲しかったりすると、それを唄の中に表現し、その感情が乗った最高の唄を聞いたときにシャツを引き裂くというものがあると分かりました。
そして、伝説のロマ族の歌い手だった、カマロン・デ・ラ・イスラの有名な曲、”SOY GITANO” (俺はジプシー)という曲のサビは、まさに、このシャツ破きのことを歌っているのだと気が付きました。
この必殺、シャツ破きは、そうそう見られるものではありませんが、そんなのを目の当たりにしてしまうと、私の夜中のフラメンコパトロールは、益々、やめられない、止まらない〜になります。
再び 若気の至り? 思い立ったらやめられない性分が。。。
踊り手としてのスタートは悪くありませんでした。
マリキージャ先生の学校に入って2年目くらいから、マリキージャ先生が持っているタブラオにて、躍らせて頂きましたし、有名なペーニャや、ライブハウスでも舞台に立つことができました。
友人とグループを作り、各地のお祭りで踊る仕事もしました。
唄の重要さがわかるようにはなってきてはいたものの、テクニックはまだ向上していませんでした。なんだか自分に納得できなかったのは、フラメンコの本質が見えてきてはいるのに、それをどうやって自分の踊りに反映させて良いのかが、良くわからないままでした。
それにもかかわらず、アンダルシアの観客は、良くも悪くもとても優しくて、「東洋から来た女の子が、達者に自分達の文化であるフラメンコを踊っている」と褒めてくれます。
私は”東洋の女の子” であるだけで、私の芸がものすごく素晴らしかった訳ではないと思っています。
なので、プロの歌い手さんに歌ってもらった時に、その反応が「ただの合格点」それだけだったというのは自分でもその当時の自分の芸への率直な反応だなと納得していました。
そんな時期、フラメンコ音楽にレボリューション時代が来ます。
バリバリのロマ族生まれの若い世代が、新しいフラメンコ音楽を確立します。
その流れの中心に、KETAMA(ケタマ)というグラナダのグループがいました。
ミリオンセラーになったアルバム(DE AKI A KATAMA ) の中に、めっちゃ気になる歌がありました。
Vente pá Madrid ( ベンテ・パ・マドリー/ マドリードへおいでよ) です。
その歌詞は…
田舎は暮らしやすいけど、都会で勝負しようぜ、マドリードには、夢がある!(超意訳)
みたいな歌でした。東京で一旗挙げようぜ!って感じでしょうか。
出来るアーティストはマドリードで勝負してるんだ!
なんだか、とても憧れてしまい、よし、マドリードのフラメンコを見てこよう!と思い、
引っ越しを決めました。
マリキージャ先生がびっくりして、
「いったい、何をマドリードで学びたいって言うの?」 と必死に止めてくださったのを覚えています。
そんな言葉も、右から左に受け流し、マグロはもう、止まらない。
マドリードへの旅支度をしてしまったのでした。
Vente pá Madrid ( ベンテ・パ・マドリー/ マドリードへおいでよ)
To be contunue
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