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執筆者の写真AYAKO ISHIKAWA

マグロのような私の人生 いつもどうにも止まらない(^^♪

更新日:2023年8月14日

前回は私がフラメンコとは知らずにフラメンコと出会ったところまでお話しました。

今日は、2回目の出会いと、どんなきっかけで踊りを習うようになり、スペインに渡ったのかお話します。


ラリーと釣り、レゲエとトライアスロン?! 


極めようと思っていたテニスを鈍足という解決しがたかった理由で諦めた私は、そのエネルギーの行き場を求めて色んなことにチャレンジしました。


先ず、ラリーの選手になろうとしました。


二十歳のお祝いに振袖を買ってあげると言う母を説得し、着物は母の若かった時のものを着る代わりに中古の車を買ってもらうよう交渉したのです。


そして晴れて車をゲット。アルバイトをして必死にためたお金でラリー仕様にタイヤを履き替えプロのラリークラブに入りました。

1年間ほどプロ選手たちの助手席で本物の走りを経験しましたが、免許取り立ての私に、その走りができる訳もなく… そしてなんといってもお金も続かなかった… 

プロのすごさを目の当たりにした私は、お金が無くなるとともにクラブを去ったのでした。




釣りの選手を夢見た時期もありました。


大きな淡水魚を釣り、当時の釣り雑誌に、年間3位というランキングで掲載されました。

もしかしたら、ビギナーズラック的なものだったのかもしれませんが、当時はスポンサーが付いて私は釣りのプロになれるんじゃないかとちょっとワクワクしました。

しかし、魚つまり自然の中に生きている生命を使って、食事のために釣るのではなく、人間のゲームのために釣り上げてお魚さんたちを傷つけているだけなのではないかと思うようになり、だんだん打ち込めなくなりこれも次第にフェイドアウトしていきました。


音楽家も目指しました。


好きだった音楽は、ワールドミュージックと呼ばれていたジャンルで、坂本龍一さんが、日本人であるアイデンティティーを程よく色んな音楽と融合していたアルバムが大好きでよく聞いていました。

夢中になったのは、家族旅行で行ったメキシコで聞いたマリアッチ音楽や、ラテン音楽そしてレゲエでした。

ボブ・マーリーの息子、ジギー・マーリーを聞きにキングストンまで行くほど熱をあげました。友人の中には、レゲエの歌手やDJになった人たちもいます。

私はというと…日本で開催されたレゲエのコンサートに行った日のことです。

何だか自分が思ったものと温度差があり「ここは私がいる場所ではない!」と感じこれもフェイドアウト… 



トライアスロンの選手を目指したこともありました。


神奈川テレビの番組のアルバイトをしていた時、ショートトライアスロンに挑戦する企画に抜擢され、3ヶ月後のレースに向けて鍛える様子を毎週番組で放送するという番組に出演していました。

めっちゃ運動神経が良い訳ではない、普通の大学生がどこまで頑張れる?という企画で、その訓練には2人のコーチが付き、かなり本格的なものでした。

泳ぎ3キロ、自転車60キロ、その後、マラソン10キロだったと思います。

結果、私は時間内に完走し、番組としての企画は無事成功!!!

鈍臭い自分がコンプレックスでしたが、頑張れば、できるんだということをこの時体感することができ、自信に繋がりました。


「結局、全部中途半端にあきらめてない?」


はい。そのご意見はごもっともです!

でも、自分の中では、その時とってもワクワクして、その当時のMAXな真剣度でそれぞれに向き合っていました。

テニスの選手になって将来グランドスラムを回って世界的に活躍する!という中学生の夢から始まって、全部に自分が納得するまで向き合ってきました。レーサー、釣り師、ミュージシャン、トライアスロンと一貫性がないようですが、今振り返れば自分の中で色々肥やしになり繋がっていることだと思っています。



【フラメンコと2回目の出会い】稲妻が走る! 


さて、やっとフラメンコが登場します。

幼少期からクラシックバレエを踊っている親友が、最近フラメンコという舞踊も教えてもらっているが、それがとても面白いんだと嬉しそうに語り、「発表会に来てよ」と誘われました。


発表会を観ながら、「何が彼女をそんなに彼女を虜にするんだろう」と思いました。


そんなある日、再び彼女に誘われて、新宿の”エル・フラメンコ”というスペインから本格的なグループを呼んでショーを見せるタブラオ(フラメンコを専門に見せる店のこと)に行きました。

「今、このスペイン人に習ってるのよ、その人はジプシー(ロマ族)なの」と彼女は私に言いました。

音楽には興味があるので、ジプシーのフラメンコね〜♪ ぐらいの軽い気持ちでお付き合い的感覚で行ったライブでしたが、なんとその日は、私の運命を変える人生最大のターニングポイントだったのです!


座った席は最前列。

始まった瞬間、まず、フラメンコの歌が、会場の空気を震わせました。

初めて聞いたのに、郷愁を感じるような歌、声は心の叫びそのもの。

それに、かき鳴らすようなギターが重なります。

踊りが入った瞬間は、一度、理解の範囲を超えました。

ギタリストの前に譜面台がないのに、どうやって演奏しているの?

指揮者もいないのにどうして全員が一緒に止まれるの?????


楽譜のある音楽しかやったことのない私はすぐに、プチパニック。頭の中は「?」だらけです。


その後はスローモーションのように、時がすぎて行きました。

理解はできなくても、確実にこの音楽に惹かれていく自分を感じ、歌っている歌詞の内容も、曲目も、わからないまま、知らないうちに、涙が溢れました。


「感動しているわ、私!」と頭で感じる余裕がないのに、人は自然と涙を流すものなのだとこの時知りました。

フラメンコは、私の脳に伝わる前に、心というか魂というか、もうよくわからない場所に直接、稲妻を落としました。


ジプシー(エル・トレオという名前の踊り手でした)は、クルクルと何回も回転し、ピタッと止まりました。激しかった歌も、手拍子も、ギターも同時にピタッと止まりす。踊り手の汗と、つけている香水の匂いが混じって、最前列の私に届きます。

不思議と私は、嫌だとは思わずに、魔法にかかったように息を殺して見続けました。


その夜、4年前に両親とみたアントニオ・ガデスのカルメンが頭の中に思い出され、


「あ!そうか あれも同じ国から来たフラメンコなんだ」


と確信し、わたしはこの日からフラメンコに夢中になっていきます。



フラメンコの本当の正体を見るためにスペインへ


”踊る”という選択肢はしばらく無く、フラメンコが何者なのか知りたくて、パルマ教室(フラメンコ専門のリズムと手拍子の教室)に暫く通いました。

ピアノをやっていた事が役立ったようで、早く習得できたと思います。


そんなある日、”相田照恵さん” と言う踊り手に出会い、彼女の踊りに、私が探しているフラメンコを感じ、彼女が主催するクラスの門をたたきます。


最初は、リズムと基礎だけを徹底的に叩き込まれたお陰で、後から曲はどんどん踊れるようになりました。

次第に、先生の前座で踊る仕事に連れて行って頂ける様になり、実践の場で踊りを学ぶこともできました。


当時は平日は大学の研究室の職員として働き、週末は、レッスンと踊りの本番の仕事に明け暮れる毎日を過ごしていました。


明るい曲や、テンポの速い曲、小道具を使った曲やグループで踊る曲をこなした頃、新たな壁が私の前に立ちはだかります。

フラメンコの真髄と言われる非常に遅いテンポで物哀しい曲が課題として出されたのです。


私は戸惑いました。


フラメンコの曲は1曲が8分〜15分くらいありますが、この間、何が歌われていて、どうしてこんなに物哀しいのか?それを、与えられた振り付けだけではどうしても表現しきれないんじゃない?と感じたのです。


やってみたものの「これじゃあ、フラメンコという音楽に乗せたちょっと変わったエアロビクスじゃないの?」とめちゃくちゃ悩みました。


なぜなら、私が見た、アントニオ・ガデスやエル・トレオは、そんな芸はしていなかったのですから。



後ろで何が歌われているのかさえわからなくても何とかやってこれたと思っていましたが、本当はそうじゃなかったんだと思いました。


フラメンコの基礎や形式はある程度身につけて、「できた!」と思っていたのですが、実際は、フラメンコの本当の正体には程遠い自分だったんだということに気がつきました。


これまでの私だったら、「もう私には極められない」とフェイドアウトしていましたが、フラメンコに関しては諦めがつかないほど好きになっていました。


そして私は、スペインに行くことを決意しました。


6年間働いたので、6年間は滞在出来るのではないかというかなり大雑把な計画でした。


そしてちょうどその頃、”フラメンコの歴史”という音楽評論家/スペイン文化研究家の濱田滋郎さんが書かれた本に出会います。

この本との出会いが、更に私のフラメンコ熱のボルテージを上げていきます!読めば読むほど胸がときめき、こんなに深いことを日本人が書いているという事実に勇気ももらいました。

お会いしたこともない濱田滋郎さんを勝手に同志とさえ思う妄想までしていました!!


相田先生には数えきれないことを教わりました。今でも胸に刻んでいる彼女の言葉があります。

フラメンコをとても遠く感じた日、フラメンコへの近道?って何?とぼやいて、悩んでいた頃…

「性格を良くするとフラメンコは近づいてくるかもよ、芸に出るよ」

と先生は笑って私に言いました。


私はその言葉を【文化を、人を、リスペクトして生き、そして学び続ける】と言うことなんじゃないかなと当時理解しました。


【それらを怠ったうわべの芸は、結局どこかで化けの皮が剥がれる、本物になるには常に鍛錬だよ。】という意味なんじゃないかなと。


”本物”が何かは、人それぞれの価値観の違いがあるので1つの本物像があるわけではないですが、私の中の本物像への物差しは3つ。

1. アントニオ・ガデスの美

2. エル・トレオの美。

(その2つの美は、2つで完璧な形になるような、表裏の美/ 白と黒)

3. 濵田滋郎さんの本(私にとってはバイブル的な存在)


この3つ、そして一足のフラメンコシューズを持って、いざ、スペインへ! 亜哉子の本物探しの旅が始まるのでした。



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